否定的に思われがちなスマホをいじるという光景について言いたい あと自分をさらけ出す訓練です。
やあinowayだよ。
自分でも気づかなかったけど、言いたいこといっぱいあったみたいでブログが止まらないよ。これは普段一切誰とも会話をせず、営業と言う仕事の時のみ会話を発する悲しいサラリーマンである僕の「業」といえるかもしれないね。ごめんね、俺。
さて、私は常から思っていることがある。
何か新しいものが広まって皆がそれを手に持ち始めたときなどに、
誰かが決まって言う言葉
「最近の若者はスマホばっかりいじっている。電車などで異様な光景だ」
「昔は見な外に出て遊んだものだが最近は皆ゲームやスマホばっかりいじってしたばかり向いている」
などと言う声が聞こえてくる。
おほほいほい、何かしら権威に寄りそうような形で発言をしたいのは理解してやらんでもないが
(この場合の権威とは慣習かな。古いものを漠然とよしとする感覚と言ってもいいかな)、
想像力が全く足りておらんなあ。思考停止である。
まず考えてみてほしいが、
仮にスマホをいじっている手元を文庫本に置き換えてみたらどうだね?
熱心な読書家だろう、そして読書家は褒められこそすれけなされることは少なかろう。
本の虫なんて死語である。そして本すらタブレットである。
ようはそういうことである。単純に時間を潰す方法が変わっただけだ。
方法が変われば光景も変わる、よって、思考停止された人々はそうした変化についていけないから(停止しているからね)新しいものを否定したいのだ。
そして批評する側に属して自らが高みに立っていると錯覚したいのである。
錯覚したまま終末を迎えたいとさえ気づくことなく思っているかもしれないのである。
まったく愚かしいことである。新しいものについていけないことが悪いのではない、
そもそもついていく必要が無ければついていかなくてよろしい。
情けないのはついていけないことに、己が寂しさを感じているからこそ否定しているのだ、
ということに気付けない点である。寂しいならば寄り添ってみればよいではないか。
「!」天啓である。寂しいならば寄りそう、まさに私がいま最も欲していることである。しかしこれは糧としよう。今はブログを量産しまくり私と言う人間をさらけ出す訓練をしているだから。