nowayのブログ

人間関係はミニマリストなnowayな私が省エネに生きる様を面白くお伝えできたらと思って書いていきます。

頭が良くない人間が効率的に生きようとすると人生が無味乾燥になるんじゃないだろうか

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私自身のことを指しての表題なのだけど、最近特にそう思っている。

頭が良くない、と書いているのは、頭が良い人は陥らないのではと思われる為。

頭が悪い人の例として私自身を挙げたいと思う。

基本的に怠け者であり努力を面倒と思い変化を嫌い保守的な性格をしている。

 こうした性格をしているので、仕事上求められる効率さや、節約し貯蓄を増やそうとする無駄を省いた生活を実践するときは、こうした私の性格を基礎として行う。

つまり、怠け者であり努力を面倒と思うがゆえに、仕事を表面的に処理することに長けるようになり深化が無い。

表面的と言っても会社から評価対象になるレベルにはアウトプットは行うよう努めるけれど、革新的~、既存にない~、私だからこそできた~、といった状況を変えるような結果をもたらすことは出来いだろうというレベル。

仕事にのめりこむということが無いから、思考の深堀もそのレベルにとどまってしまうため、1日の大半を費やして行う週5日の仕事も、言ってしまえば食い扶持を稼ぐ手段にとどまってしまう。

もちろん、私も仕事をしていれば、局面局面ではやりがいや嬉しさや口惜しさなど感情が動くときもあるけれど、一過性のものに過ぎない。感情が基本的に波打たない。

結果仕事上では効率的になり、私はまるでマシーンである。効率的の究極はロボットやAIだ。人間の短所である、サボり怠けルールを破り欺く、といった部分を排し、効率的に決められた仕事をルールに遵守し誠実にこなす、といったことを実践するからだ。サボり怠けルールを破り欺くは社会全体では非効率だし、当の本人からしても非効率なのだけれど、局面を凌ぐためだけに行われる。ただ、もう大人だしというか30代にもなってその場しのぎなんてことも出来なくなってるし、結果的にルールを順守し誠実に仕事に取り組むことが、効率さを加速させている。

さて、私は今ふと自分のことを自分なりに振り返ってみると、実に無味乾燥な毎日を送っているなと気が付いた。

日々の仕事を効率的に行うこと。その日常は言ってみれば効率化の訓練だ。

訓練の影響が私の生活のあらゆる局面で効率化として影を落としていることに気が付く。

例えば、休日に何かやろう!と思ったとする。そうだドライブに行って温泉でも入ろう。高速を使うか下道で行くか?時間効率がいいのは高速だが、節約するなら下道だよな、下道で行くなら行ける距離は〇㎞くらいで、そうなると温泉はこことこことここだ。タオルは現地で買うと高いから持っていこう。ご飯はどうしようか。現地で食べると高いからコンビニで買いながら行くか、いや、せっかく行くんだから現地で食べようか?うーん、ちょっと今月の家計簿を見てみよう。ああ、結構使っているな、うーん、温泉に行っちゃうと結構オーバーしてしまうかも。行くのは来月にしようかな。じゃあ今日は何をしようか。("^ω^)・・・掃除でもするか。ほこりも気になるし。うん、それがいい。だったら洗濯機を回そう。その間にトイレを洗って、風呂を洗って、あ、その前に米を炊いておこう。あ、お茶も沸かそう。

いかがだろうか。せわしない。そして機械的効率的判断に終始し、全く面白くない。

もういい加減にもっと不確実なことをしたい。このままではまるで予定調和である。

何かをする前からすでに結末は決まっているかのようではないか。

効率的なことは悪くない。悪くないがよいとも言えない。

どんどん効率的になると、時間がたつのがすごく早くなるのだ。というか周りが遅く感じる。

なんで他人はもっとサッサと動かないのか?遅いな!遅い!という感じである。

他人には他人のペースがあって、私がイライラする必要などないのだ。

もっとどーんと構えて生きていたいが、私は自分自身の中にある効率化という考えに振り回されている。

とても情緒が損なわれている感じがする。

なんていうんだろうか。効率的を使いこなせていない気がする。効率的になれば心に余裕が生まれそうなものだが、逆に余裕がなくなっている気がする。

そして表題について思ったわけだ。あまり優秀ではない人間が、優秀な人間のように効率的に振る舞おうと頑張ってみても、どうにもうまくいかないんじゃないかと。結局、効率的な考え方に振り回されて、自分自身の情緒が損なわれてしまうのではないか。使いこなせれば有効な「効率」は、おそらく誰もが使いこなせるものではないのではないか、少なくとも私は。

それとも習熟のもんだいだろうか?

何事も使いこなすまでには時間がかかるのかもしれない。ひょっとすると、効率的な考え方も、私がまだ使いこなすに至らないから、このように人生が無味乾燥になる、と懸念しているだけで、使いこなせるようになるとそんな風に思わなくても済むのだろうか?

でもなあ、予感にしか過ぎないけど、このままだとダメな気がするんだよなあ。

効率的な考え方に殺されるような気がしてならない。

ちょっくらこの辺で非効率なことをするべきだと思う。

とはいえ、私は今は仕事しかないから、明日のお客さんとの会話の時は、非効率に無駄話をして時間を費やし、最短ルートで客に向かうのではなく、無駄に乗り換えてみたり、家計簿のことは忘れて好きなものを食べたり、してみようか。

あれ、これって20代のころの私そのものじゃないか?うーん?